中島哲也「渇き。」

「フィルムの特質を監督個人名に帰することは出来ないにしても、「中島哲也」という名前を想起することで何らかの知見は得られることと存じます。「観客」という視座からみて監督の銘がその見方に何ら影響を与えないということもまたあり得ない。本作について述べたいことは、端的に云うと「橋本愛さんを愛でる映画」だということです。厳正なるオーディションの下発掘された小松菜奈演じる加奈子、というシンボライズされた「物語の目的」要素よりも、ぼんやりと画面に映る加奈子の同級生・森下こと橋本愛さんの存在感が勝ってしまう。このときわたくしの脳裏をよぎるのは、今画面に映っている被写体が加奈子の同級生森下ではなく、「橋本愛さん」にほかならないということ。同様に役所広司が「役所広司」に、妻夫木聡が「妻夫木聡」にしか見えなくなる瞬間があって、画面の表層をなぞる自らの視線に、脱-物語的な、フェティッシュな映像の断片を愛でる瞬間を感じるのです。長回しを極端に忌避し、ぶつ切りショットが連続的な意味を成さないよう周到に配置されたフィルムを前にして、思考は「意味される物語」よりも、即物的で意外な断片の予期せぬ繋がりに興奮を覚えてしまう。わたくしにとって物語を離れて「役者個人」を意識してしまう瞬間、すなわち画面構成をアップショットに耐える役者の「顔」に頼らざるを得ないナラティブの拘束の弱さは、端的に言って邦画の弱点だったのでございますが、中島哲也の『渇き。』はむしろその質感を最大限に引き出してストイックに偏愛するフィルムだった、と言表することが出来るでしょう。この際本作のパズル的構成の妙は語りますまい。「藤島刑事」と「ボク」の物語の複線的同時進行を支えるクロスカッティングや、その連想を裏切り物語時間を隔てる悪友那美の死という規定事実、そして藤島を打つ雨水吹き溜まる路面から顔出すボクの〈水〉の主題系の演出――を指摘した所で何になるというのですか。「始点と終点」が明朗であればそれで宜しい。大事なのは「それであること」ではなく、自明でありながら尚フィルムをこのようにつなぐと「同時的にみえる」ということ、規定事実を裏切る連想の更新、そして「意外性」なのです。これら注意をそらす契機の何たる多きことか。「橋本愛さん」の前髪の真っ直ぐさに潔癖症じみた妄執を感じ、迸るスタンガンの閃光に思わず加奈子の表象を失念して目の前の「橋本愛さん」に虐待されたいと念ず。このとき、画面を占めるのは「橋本愛さん以上でも以下でも」ありますまい。「橋本愛さん」の圧倒的強度を前にした時、こみ上げてくる笑み。『渇き。』はゲラゲラ笑いながら観るのが好ましい映画だと、そのように感じた次第です」

映画『渇き。』公式サイト http://kawaki.gaga.ne.jp/ 2014年8月11日閲覧

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【告知】C83冬コミ寄稿情報(二本)

おはようございます。本日からコミケ1日目となり、機を逸してしまった感がありますが、Twitterだけではなく、ブログのほうでも告知記事を記しておきます。

まずは一本目です。

■龍血一滴(東ヒ-15b,他):〈敵〉というレトリック

C83(一日目)、機龍警察合同誌『龍血一滴』に「〈敵〉というレトリック」という設定考察論考を寄稿しました。冒頭500字をサンプルとして公開します。

「過去の歴史を振り返れば、市場の力は最後には政府の力を凌駕する。今世界で起きている様々な出来事は、金融、政治、犯罪の三つの観点から同時に捉える必要がある」――沖津旬一郎

機龍警察は、〈龍機兵〉を巡る設定を除けば、実に明確に現実の世界情勢を切り出している。

数ある代表作の中で、特に『ノワール』(2001)では美少女ガンアクションのストーリーラインの背後で第二次大戦以降の地域紛争や国家のアイデンティティにまつわる文脈を汲み取りながら緻密な世界観を構築していた脚本家・月村了衛。その氏の「作家デビュー作」とあって、私は本シリーズを手に取らずにはいられなかった。そして第三作『機龍警察 暗黒市場』まで読み終えた今、ノワールで現出しようとしていたあの〈世界〉との相似を、ここに強く読み取るのである。「機龍警察」には、現実の世界を如何にしてフィクションの中に反映させようかと苦心する、氏の信念のようなものが感じ取れると言ってよいだろう。その整合性への関心は、政治分野、経済分野、歴史分野と多岐に渡っており、非常に広い文脈を射程に入れている。さしあたって本稿ではそれらをまとめて「現代政治経済史」として曖昧に呼称しつつ、同時にそれらを綜合するニュアンスを込めて先のフレーズを用いることとしたい。本稿は「機龍警察」のストーリラインの背後に構築されている緻密な世界観を、俯瞰的な視座に立って現代政治経済史の文脈から解題する試みである。

このように、論考では月村氏の作劇の姿勢から読み取れる、「とてつもなく巨視的な水準で現実を写生しようとするリアリズム」の形態を解題することを目標とします。ブルックスブラザーズのスーツを着てユーリの前に立ちはだかるかつての仇敵であり、ロシア官僚であったバララーエフ。その装いからは「アメリカナイズ」の記号が読み取れるのであり、拙稿ではオリガルヒの文脈の背後で含意されると思われるアメリカの「新自由主義」について紙幅を割きながら、沖津の「レッテル貼り」のポピュリズムから、オフショアを経由した集金スキームを通じた「新しい腐敗」の在り方までをテーマ的に解題しています。

次のご紹介に移ります。

■イルミナシオン(東パ-28a):「異邦人」としてライトノベルを読む

C83(一日目)、「思想と文学とサブカルチャー」の同人誌『イルミナシオン』に「「異邦人」としてライトノベルを読む」を寄稿しました。冒頭1200字となる誌面のサンプル画像を公式サイトのcontentsページよりお借りして記載します。

”一人の「ラノベ好き」の立場から敢えて「異邦人」としてライトノベルの好みを表明していくということ。新しい近代のコミュニケーション空間において、「声」を発する場所を確保するのは現代人の至上命題である”

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いつしかライトノベル界隈は、作品そのものを受容する場から、コミュニケーション主体の場へと移り変わってしまいました。そこではコミュニケーションのための読書が目的化し、作品の鑑賞は二の次となっています。その至る先は「お友達に嘲笑われるからあれこれの作品は読まない」といった受容態度、つまり醸成された規範意識に沿って選好が保守化することで、ライトノベル界隈にあった作品の多様性は失われてしまうのではないか、と筆者は危惧しました。拙稿では、そのような昨今のライトノベル情勢を「ライトノベル読者」の基礎付けによって読者論から解題し、同時に筆者のとる立場から竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』の作品論を扱います。氏の作品から読み取れる「単独者の眼差し」を暴くことで、「ライトノベル読者はどうあるべきか?」という問題提起を行う論考です。

以上、冬コミ寄稿原稿2本をご紹介いたしました。

僕は会場にはおりませんが、お立ち寄りの際は是非お手にとって頂けると幸いです。