ライトノベルに関する覚書

ライトノベルにまつわるエントリを続けて二本投下したが、ここは批評系合同誌のような対象読者層が想定された場ではなく、もう少し軽い文章も載せていったほうがいいだろうとふと思い立ったので、先のエントリの論点を簡単に要約しておきたいと思う。

(1) 『このライトノベルがすごい!2013』のDTPデザインの話 2012年11月27日

(1)では具体的を挙げて1冊のムック本に関する批判点を指摘したが、僕が問題意識として考えているのはもう少し射程の広い話である。いま巷で流通している「ライトノベル」について、具体的な定義付け及び超越的な視点からの充分な総括が不足していることを(1)では述べた。さらに、この媒体の性質はどうやら商業的な要請からレッテル貼りとして流通した呼称でありそうなことが、(1)の結論によってみえてきた。売り手(≠作者)が売場の都合上一括りに展開するために「ライトノベル」のような分類が必要であっただけで、いわばその一つのレッテルが好意的に受容された結果、物語の書き手及びその刊行者が模倣によって先の土壌に合わせて物語を供給し始めたと考えたほうが自然だ。それによって「規範」にそぐわない作品は自然に淘汰され、読者の選好は必然的に保守化していく。もとよりこれは一定の需要層に売るための分類なのであって、「物語の類型」の分類ではないのである。それゆえに先の観点からではなく、共通する土壌から醸成されたディスコース(言説/記述)の表現手法に着目してライトノベルを解題したメイナード(2012)の先見性は注目に値する。つまり、定義するべきは「ライトノベル」というジャンルではなく、それを受容する「ライトノベル読者」の性質についてなのである。

(2) 「脱=ライトノベル読者」宣言 序説 2012年11月29日

そのような問題提起を、(2)では理念的に行った。メイナードの「ライトノベル読者」の基礎付けに延長線をひいて、特にバウマン(2001)のリキッド・モダニティ概念から僕なりにラノベ読みの生態を読み取らせて頂いた。バウマンが面白いのはやはりポストモダニティの意味で「リキッド・モダニティ」という語彙を用いている点である。いわゆる「ポストモダン」概念の性質をごくごく簡単に述べると、要するに「突然降って現れた」潮流転換である。それこそ突然の近代の退潮と、新しい大衆文化の基礎付けがリオタールの功績であり、日本においては東の仕事だったものである。しかしこれらは文字通り命脈の「断絶」である。そこをバウマンは近代の形状変化、というレトリックを用いて連続性で捉えている。バウマンの見方が優れているのは、現実の経済事象との紐付けを想定している点である。念のため述べると『リキッド・モダニティ―液状化する社会』(2001)の中でその点について踏み込んだ分析をしているわけではない。であるが「重い資本主義」と「軽い資本主義」のレトリックは要するに、リオタールの述べたような新潮流が「突然降って現れた」のではなく、現実の社会の経済構造の変化によって必然的に現れた、われわれ〈大衆〉の生の変化であることを述べているのだ。その転換点を僕なりのごくごく狭い知識の範囲で(2)で考察させて貰った(リベラリズムの文脈から捉えられるそれらの潮流転換として、具体的な統計資料を用いた詳細な分析はハーヴェイ(2007)の仕事を参照されたい)。つまりは「ライトノベル読者」というのは、その中で徴候的に現れる〈大衆〉像を追うことで理解されるものとここでは考える。その上で僕が私的に「面白い小説」と巡りあうためには何が必要かと考えた結果が、「ライトノベル」という包括的な枠組への認識を個人の選好から除外せよ、という結論だった。

「ライトノベル読者」というのはまさしく、自分でライトノベルを読んでいるのではなく、むしろ「ライトノベル」のほうから「規範的な物語」を読まされているのである。であるから僕は「ライトノベル読者」を脱する、とわざわざ明文化して書いたのだ。「ライトノベル」の小説ではなく、一冊の小説を”それとして”〈読む〉ということ……。リキッド・モダニティにおける「個人」という主体が消費行動に実存を求めるという構造が存在する以上「ライトノベル」という名のバベルの塔は各人を魅了し続けるであろう。しかしその団結はいずれ崩れ去る運命にあるのである。「ライトノベル」という実像を持たない全体に気をとられている場合ではない。「規範」による〈物語〉の淘汰はもう既に始まっている。われわれは、個人が各々の確固たる「洞察」をもって「一冊の小説」に当たって行かなければ、バベルの塔の崩壊を食い止めることはできないであろう。

【読書案内】

「脱=ライトノベル読者」宣言 序説

僕は今でこそ読書量は激減してしまったが、現在でもそこそこライトノベルを読んでいる。これでもライトノベル作品自体は好きだし、愛好しているといっていい。しかしごく個人的な感想を述べさせてもらうとすれば「ライトノベルが好きな自分」というアイデンティティはすっかり消滅してしまったように感じられる。そして他人のそうした意識に苛立ちを感じ始めている自分の姿に驚きを隠せないでいるのだ。僕は、前の「『このライトノベルがすごい!2013』のDTPデザインの話」というエントリで次のように述べた。

僕はここの「目利き」の評価軸が既に信じられなくなってしまっている。彼らの選定基準もまた、「ライトノベル読者」としての「規範」を参照した保守的なものなのではないだろうか、という問題提起をさせて頂きたい。これについてはいずれまた別の機会に詳しく書くつもりだ。

端的に言って、「目利き」の優越意識が一個人のライトノベル愛好者として鬱陶しいのである。今回はこれについて詳しく書いていきたい。

まずは「ライトノベル」とは一体どういう性質のものなのか、という点から確認していこう。

ライトノベルの特徴について、日本語学・言語学研究者の泉子・K・メイナードはライトノベルに関する研究書『ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察』(2012)のまえがきで「ライトノベルはあたかも話すように語り、創造的な行為を通して言語で遊び、しかも視覚的なイメージを呼び起こすディスコースである」と述べている。そのような特徴をもつ言説をメイナードは特に「会話体文章」(2012:39)と呼んでおり、さらに「ライトノベルの場合は、読者の読み方自体に特徴がある」(2012:33)と主張している。

ここからも読み取れる通り、ライトノベルという媒体を規定する上で「ライトノベル読者」を的確に捉える必要があることは窺えるだろう。その上で僕の問題提起はこうだ。「ライトノベル読者」、つまり「ラノベ読み」という排他的な選民意識を捨て去って、ライトノベルという枠組ではなく「一冊の小説」として作品と向い合っていけ、という主張である。さらにいえば「ライトノベル」という記号系は商業上の要請から生まれた一種のレッテルであり、決して自らの身の上を措定する自己像の投影先ではないのだ。これらの主張を展開していく上で、まず何よりも先に「ライトノベル読者」というのがいかなる立ち位置に置かれているのかという認識を共有しなければならない。その上で前述のメイナードによる基礎付けが有益なので簡単に要約する。

まずリオタール、ジェイムソンらの活躍によって広く受け入れられることとなった術語に「ポストモダン」があるが、日本のポストモダンの時代における「大きな物語の衰退」(東:2007)と同調する形で文学の志向するリアリズムは「私」という存在が現実を写生する自然主義的リアリズムから「キャラクター」の語り手が虚構世界を写生するまんが・アニメ的リアリズムへの転換が起こる。ポストモダンを起点にこのリアリズムの系譜の中でジャンルの細分化が起こり、派生的なジャンルとしての「ライトノベル」はひとまず『スレイヤーズ』シリーズが勃興した90年代に成立したものとしてみなすことが提案される。ところでメイナードは「ジャンル」という言葉を自身による定義と合わせてバゼルマン(2002)の用いる意味でも使う。ジャンルとはコミュニケーションのための社会的なスペース、つまり分類行為自体を指すのではなく、一つの区分の中で行われるコミュニケーション行為の全体及びそのための場を指すという主張である。これによって、「ライトノベル」というジャンルは、現実の世界に指示対象をもたない記号系であるシミュラークル(ボードリヤール:1981)として構築された虚構世界がライトノベル読者というポストモダンの一主体をアフォード(彼らの実存に関わる認知の対象を提供)することで、彼らが相互にコミュニケートする社会的スペースとして基礎付けられる。この消費される対象としての虚構に関してメイナードは、特に中間項としての社会を排した「セカイ系」(東:2004)の物語を仮定し、これを欲し、積極的に受容しようとする共同体としてのライトノベル読者像を提起するべく、彼らをバウマンの云う「リキッド・モダニティ」に落とし込もうとする。

メイナードによる基礎付けは以上である。

それにしてもリオタールを便宜的にひいているメイナードが、敢えてバウマンを援用してくるのは興味深い。というのも、バウマンにとってリキッド・モダニティという語彙はポストモダニティをパラフレーズするものだからだ。もう少し詳細にみていこう。バウマンはこの術語を定義するにあたって、(1)でまず「流体の特徴」を描写している。

(1) 『リキッド・モダニティ―液状化する社会』 4

流体は簡単に移動する。流体は「流れ」、「こぼれ」、「はねちり」、「溢れ」、「みなぎり」、「しぶきとして飛び散り」、「垂れ」、「滲みだし」、「漏れる」。個体とは違い、流体は簡単には止められない。

このイメージがまさしく重要である。バウマンにとって「新しい近代」は近代的コンテクストという命脈の断絶ではなく、固体(ソリッド)から流体(リキッド)への形態変化の連続性で捉えられている。さらにバウマンはソリッド/リキッドの対立軸に重ねて「重い資本主義」と「軽い資本主義」を対置する。「重い資本主義」とはつまりケインズ的なイギリス型福祉国家の時代である。金融資本を国内にしばりつけ、国家が市場経済に介入することを是とする介入主義的政策を中心に据え、ある種の「集産主義」(個人よりも集団的利益を優先する理論)体制を敷く代わりに、経済活動の活性化によって充実した社会保障を実現することでその責を負い、そうしたセーフティーネットの内側に国民を「固定」する社会システムである。個人はこの枠内において自由を保障される。要するにここでは経済的効率と社会正義と個人的自由の統合が構想されていたともいえる。それに対して「軽い資本主義」はおそらく80年代の「サッチャリズム」や「レーガノミックス」と呼ばれた自由放任的な方面への政策転換、およびそのために準備された政治的プロパガンダと無関係ではない。これら「ネオ・リベラリズム」による新しい国家体制はバウマンの語彙を借用すれば〈ソリッド〉な福祉国家を〈液状化〉させたと言えそうだが、それらの思想の先駆者であり、改革の根拠とされたハイエクは、端的に言えば市場システムによって形成されるとする自生的秩序に信頼を置きすぎていたのだ。国家間を自由に駆け巡るようになった資本の流体は、しかし実際には目に見える社会的スペースから〈漏れ〉出している。深化する国際寡占競争の只中を流れる資本は、合理的な市場にではなく「税金の掛からない場所」へと〈流れこむ〉のである。成長しすぎた経済権力は、市場の自生的秩序もまた〈液状化〉させる。ネオ・リベラリズムに依拠した国家体制の正体は、そのツケを「国民」に背負わせる社会システムにほかならない。「軽い資本主義」の下では個人的自由の概念が自由企業の擁護にすり替えられる。さらに、ここにある非=倫理性を「国民」へと問いかけるべく、「道徳」を体制正当化の根拠におく政治的プロパガンダが、アメリカ型新保守主義(アメリカ系政治哲学の文脈における「保守」概念はリベラリズムの一種)である。余談となるが、虚構世界のキャラクターという語りの主体を通じて、自らがこの経済権力を掌握しようと主張することで、逆説的に現代資本主義の欺瞞を暴露するローティ的な意味でのアイロニストがライトノベル作家の至道流星である。『羽月莉音の帝国』ではネオ・リベラリズムが内包した統制的権力への志向が全体主義的傾向を帯びていく過程を、『大日本サムライガール』では右翼思想とアメリカ型新保守主義が共に権威主義を志向している点を如実に描き出しているように読むことができる。ハイエクに福祉国家批判の口実を与えたナチズム、ファシズム、共産主義の記憶が、姿形を変えて再び蘇ってくるようだ。モダンに置き去られた全体主義の〈固形物〉は〈流体〉に形を変え、「国民」の目を覆って耳の穴へと入り込み、今まさに口の中へと流入して、彼らを窒息させようとしている。(2)でカール・ポランニーの言葉を借りて自由主義的ユートピアニズムの行き着く先をまとめるハーヴェイを引用してリキッド・モダニティに関する注釈を終えたい。

(2) 『新自由主義 その歴史的展開と現在』 53-54

「自由主義的ユートピアニズムのビジョンを維持する唯一の方法は、力の行使、暴力、権威主義である。[…]自由主義的ないし新自由主義的なユートピアニズムは、権威主義あるいは露骨なファシズムによって打ち砕かれる運命にある」

話をライトノベルへと戻そう。要はこのリキッド・モダニティという近代史観がどのようにライトノベル読者を規定するヒントとなるか、である。液体的近代、つまり「軽い資本主義」の下で核心となるのは、個人の領域に依拠した「連続的近代化作業」としての消費衝動である。近代人は充足することを知らない。ある種の信仰の消滅とともに近代人は存在の「自立」を得たが、代わりに自己改良の無限の可能性に振り回されることとなった。そしてモダンにおいて一度形作られたものが再び破壊されるのがリキッド・モダニティの時代である。ここでは「軽い資本主義」のプレイヤーたちは充分な個人資産と共にその責務を逃れ、近代化作業の責任は下部層の人間、つまり納税者が負わされる。大雑把にいえば、福祉国家的な社会保障のセーフティーネット幻想が瓦解し、上層部のビジネスエリートから「負債」を押し付けられた「個人」は、近代の時代によって宿命づけられた個人化の作業を今もなお迫られて続けている。「自立」によって得たものとは、言い換えれば「居場所の無さ」であると言えるだろう。ここにあるアンビバレントな感情が相反感情である。その中で自らのアイデンティティを規定する拠り所となる共同体が、「ライトノベル読者」にとっては「ライトノベル」というジャンル=社会的スペースであると想像することができる。そこでは彼らのジャンルを受け入れるように期待されるコミュニケーションが存在し、その了解の上で成り立つ空間は一種の文化圏を形成している。

ここで「彼ら」という言葉を使ったことに「僕」の主張に至る核心がある。

僕の問題意識とはつまり、言い換えれば「彼ら」の文化圏への懐疑である。「セカイ系」的虚構世界を消費するということ、つまり現実の社会体から目を逸らして盲目的にシミュラークルの世界を生きる「ライトノベル読者」像を素描するメイナードの基礎付けは的確であると評価することはできる。しかしそれらは同時にライトノベルのもつ多様性・多義性を捨象しかねない側面を含んでいる。ということはつまり、実際ある種の多義性の上で成立しているライトノベルという媒体を鑑みると、メイナードの基礎付けは正しくないのだろうか? いや、「彼ら」は事実存在していると僕は考える。そこではバウマンの云う新しい近代の個人である「ラノベ読み」として選民意識を振りかざしながら、その実態は「買い物の記号学」に振り回される一消費者として、生息しているのである。そこで彼らは総じて盲目的な消費に甘んじている。大量の虚構世界を消費しながらも個々人の趣向は先鋭化するどころかみるみる保守化していき、それを自覚しない「無邪気」な彼らのコミュニケーションスペースはアドルノがかつて云ったようなあの「洞察」を、排斥してしまう。

そのような集団にあって、一人の「ラノベ好き」の立場から敢えて「異邦人」としてライトノベルの好みを表明していくということ。新しい近代のコミュニケーション空間において「声」を発する場所を確保するのは現代人の至上命題である。その実践としてまず僕は現実の社会体を見据えた上で虚構のシミュラークル世界を相対化して「洞察」していく立場をとりたい。その実践として僕は”非=ライトノベル読者”として具体的な作品論を展開していくことになるだろう(注12012年12月22日追記)。「ライトノベル読者」というマジョリティ集団の連帯意識に異議を唱えるということ……。そのためには逆説的だが、「ライトノベル」に関するいかなる定義付けも棄却していかなければならない。

僕は「ライトノベル読者」ではない。 ――たまたま出逢った私的な一冊の愛好者である!

同様に「ライトノベル」はコミュニケーションのための社会的スペースではない。 ――それは”買い物の記号学”の記号系である!

宣言しよう、

脱=ライトノベル読者、ここに在りと。ちっぽけな本読みのプライドなぞ捨ててゆけ。

【追記】

要約版を書きました。→「ライトノベルに関する覚書」 2012年11月30日9時03分

【注釈】

注1.

冬コミの3日目(12/31)東パ-28a、「思想と文学とサブカルチャー」の同人誌『イルミナシオン』に「「異邦人」としてライトノベルを読む」というタイトルで竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』の作品論を寄稿しました。僕は現地に居ませんが、お立ち寄りの際は気にかけて頂ければ幸いです。是非とも宜しくお願いします。 2012年12月22日追記