パランプセストの上で世界の痕跡をたどる物語 ――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』感想

絡まる、ほどける、ひっぱる……そして引き伸ばされ、交差し、株分けされて、また一束の線になる。何の話かというと、これが『新劇場版:Q』だ。本作はそのようなmouvementの変形の軌跡として捉えることができる。「mouvement」とは何かというと、動くものを視て目を瞑ったときに、瞼の裏に残るあの白い線のことだ。もうご承知のとおり、本作は「ニアサード・インパクト」を経て目を覚ましたシンジが、いきなり理解の及ばない世界に放り出され、自分の見識を頼りに世界の有り様を想像していく物語である。もしあなたがご承知でなかったのであれば、そういうものとして捉えてみてほしい。僕は本作を、そのように理解している。さらに本作の物語は一貫した背骨が中心に通っているのではなく、常に過去の描写との範列関係の選択において成立している。「範列」とは何かというと、一方を選択すると他方が隠れてしまう関係のことだ。菅の椅子に野田が座っているのが『新劇場版:Q』である。耳慣れた表現に直すと、これは通俗的には「隠喩」と呼ばれている。このようなメタフォリカルな断片のつぎはぎがセルフパロディの身振りを規定し、同時にその徹底された形式性が一貫した意味の成立を困難としている。もとより「答え」は存在しない。それゆえに解釈はthématiqueに施すより、シンジのみるイメージに着目する印象批評が望ましい。同様にmouvementというより「ムーブメント」の語彙のほうが馴染みやすいし、難しい批評よりもわかりやすい感想文のほうがよい。さしあたってよりよい洞察をめぐらせるべく、スクリーンの前で目を瞑りながらヱヴァを語ることにしよう。

1. 絡まる

被写体が円の軌道を描いて大回りしながら、その中心線を軸にドリルのように回転する映像が印象的なのがアバンだ。待機画面から作戦行動へと移行し、ブースタ・ユニットを次々とjettison(これが言いたかった)して目標高度に到達し、目標を回収するまでの流れはまぁみていればわかる。しかし逆の言い方をすればそれ以外は全くといってわからないと言っていい。おそらく『新劇場版:破』の最後で初号機のエントリープラグが大気圏外へと飛ばされて、それを拾いにいったのであろうと察することのできるのはヴィレの体制や行動目的の情報が小出しに開示されていくもっと後の話で、ここで気が回るのは余程のマニアくらいしかいない。それにわれわれは『巨神兵東京に現る』を観たすぐ後で少し頭が混乱しているのだ。したがって、それらを捨象したごく現実的な情報、例えばここは大気圏外の宇宙空間で、その中で飛行物体が(始点と終点とが重なる)円の軌道を描いて――でなければ物体はあらぬ方向に飛び去ってしまう――飛んでいることは強く印象に残る。その中で飛行物体から飛び出した紐はいびつに絡まり合い、ただただ混乱した筋の混線を印象づけている。「なんとかしなさいよ、バカシンジ!」でシンジが本当になんとかしてしまうのが次のムーブメントの変形だ。

2. ほどける

閃光が円状にぐるぐる絡まった帯を八つ裂きに切り裂いて、ばらばらの破片にしてほどいてしまうのはなんとも鮮烈な光景である。重要なのは「どのように」なされたのかではなく、シンジの行為として理解されることだ。「なんとかしなさいよ、バカシンジ!」に先の映像がモンタージュされることで、それはシンジの行為と同一視され、円のムーブメントの切断に「絡まった糸をほどくシンジ」の印象が重なる。この連想の重なりは、のちのち「円状のムーブメント」自体にもある印象を付加することになる(前作でそれはまさしく天使の輪および「サード・インパクト」の脅威そのものだった)。それだけ伝わればアバンのシーンは充分ということなのだろう。大気圏の突入から流れ星の軌跡が象徴する下降ムーブメントに支えられて物語はいよいよシンジが目をひらく本編へと突入する。

3. ひっぱる

何も全てを記述しようという意図はない。なので要領よくシーンを飛ばしていこう。次に僕が目を惹かれたのは、新しい脅威・ネーメジスシリーズと闘うヴィレの戦艦・ヴンダーのシークエンスである。ここでもう一度目をつぶろう。あなたの瞼の裏にはまだあのばらばらになった紐の破片が宙に浮かんでいる。まるでその一つ一つが姿を変えてヴンダーに襲い掛かってくるように見えはしないだろうか。それをヴンダーは水面を「割って」上昇軌道に入り、船体の遥か下方で振り子のように回転させながら討つ。この動きはヴィレの「抵抗運動」をもっとも象徴的に表している。サード・インパクトにおいてあの忌々しい天使の輪はどの被写体よりも空間の上部に位置していた。それに対してヴィレは、ヴンダーの船体をその上方にもってくることで「境界面」を打ち破り、あの円環を「ひっぱる」ことで、船体のはるか下方の空間で回転のムーブメントを自壊へと導くのである。このように、ヴィレの船員の意思は物語の下降ムーブメントに抗うような上昇ムーブメントで印象づけられている。

4. 引き伸ばす

ここが本作でもっとも重要な変形だ。円を描いていた帯が切断され、ぎゅっと引き伸ばされるとどうなるか。答えは水平に伸びて、線の一つ一つは平行になる。それを基礎づけるキーヴィジュアルが、あのピアノの弦だ。ヴンダーの船内では常に画面下手側に置かれ、上手側のヴィレのメンバーとの間に情報の断絶があったシンジは、かつてのネルフ本部へと進んでいく下降ムーブメントの進行過程で、大きく俯瞰するレイアウトで空間下部、グランドピアノを自由自在にひくカヲルを視認する。シンジの主観ショットとして繋がれるこの映像が重要だ。ある意味映画館の空間の地理性に縛り付けられるわれわれはシンジであり、彼と視座を共有している。シンジと同様、わけのわからぬまま現在の立ち位置まで引っ張られてきたわれわれにとって、このグランドピアノの映像はとても印象に残る。シンジは正体不明の少年への印象を抱いたままゲンドウを前に画面下手側に立たされ、上手側のカヲルを不審に見遣るのだが、次にピアノの連弾で打ち解ける過程でこの位置は入れ替わりの余地をみせていく。そうした場のコンテクストの中で、モンタージュされるハンマーが弦を叩き、楽譜の中の音符が移り変わっていく映像。これはまさにシンジが混沌の中に見出した秩序として理解されても良いだろう。円を描いていた線は切断され、両端が「引き伸ばされ」、いまやピアノの筐体の中で水平に伸びる整序されたピアノ線になっている。特にアップライト・ピアノではなく、コンサートグランド・ピアノであることが重要だ。並行かつ等間隔に並んだダンパーが次々と上下し、無数のハンマーが同時に弦を叩いていく映像は美しくて感動的ですらある。シンジの指がおそるおそる鍵盤を叩くとダンパーが持ち上がってハンマーが弦を叩き、弦の振動はブリッジをつたって響板を共鳴させる。シンジの行動がピンと張った糸の命脈を揺さぶり、同時に平行に並んだ他の糸を共鳴させていく幻想は彼にとってなんとも甘美なイメージだ。それをカヲルと共に遂行するということ……平行に並ぶそれぞれの弦は個々の並行世界に見立てることができるし、これらを同時に共鳴させてカヲルとこの世界を変えていくというヴィジョンはシンジがこの世界の地に足をつけるための重要なイメージとなる。しかしシンジとカヲルが足をつけているのは、ネーメジスシリーズが破砕された際に発していたあの「斜め十字」(使徒の正十字との範列関係にある)が無数に敷き詰められた碁盤目模様の地面なのである。

碁盤目というと、もう一つ重要なモチーフとして将棋盤の盤上の空間がある。いわば、将棋を指す行為もあの「ピアノ線の脈動」の一種である。冬月から将棋に誘われたシンジであったが、対局のシーンは省略され、「三十一手先で君の詰みだ」という冬月のセリフで二人の対局は終了する。しかし僕の印象によると、このセリフはどうも先のコンテクストに掛かっているように感じられる。それはシンジが彼の見立てにおいて「読み負ける」という痛烈な指摘である。実際のところ、ピアノ線のイメージからどこまで連想を重ねても、受け手の視座からはそうみえるというだけの話で、シンジ自身がどこまで考えているのかは誰にもわからない。それは作中の人物――特に冬月――にとっても同様である。しかし、将棋というルール化された「読み」の競り合いでは、そのルールの範疇である程度、シンジの「読みの程度」を推定することは可能だ。そこでそのルールの内訳なのだが、僕は将棋のゲームの進め方にあの平行なピアノ線に通ずるものを連想している。ゲームの開始では無数の選択肢が用意されており、それゆえに定石を頼りにお互い線を乗り換えていくのであるが、熟練者は相手にみえている線と同じものを推論を重ねて「視る」ことで、どの線に乗り換えるのか予測することができる。ゲームも終盤に差し掛かると選択できる乗り換え可能な線の数は減少していき、やがて線の終点に行き着いてしまうのが「詰み」だ。しかし熟練者は今いる地点から類推して別の線上に存在するその終点を具体的に知覚することができる。通常それは負けを理解した指し手が投了を宣言するタイミングが早ければ早いほど美徳とされるが、冬月のように相手の負けを指摘するような局面も、このようなコンテクスト下であれば、本筋と結びつけて意味を解釈することが可能となるだろう。対局の場面がカットされているのも至極単純な理由で、この映画の本編こそがシンジにとっての対局そのものだからだ。シンジの負けを指摘した冬月は彼に「将棋崩し」を提案する。ルールの変更もまたRedoの実践の一種である。しかしカメラに映された盤上にある光景は、シンジの陣にぐちゃぐちゃに山積みになった駒に、冬月の陣の綺麗に横一列に伸びた歩が槍先を突きつけているような場面である。冬月の陣は将棋崩しではなく将棋のルールのままであり、盤上で定義されているルールはもとより一つしかないのだ。緊張に包まれた盤の上で、シンジは自らの立ち位置を規定することができないでいる。

5. 交差

次は「二人で乗るEVA」のコクピット画面である。大人たちから常に情報を秘匿され続けてきたシンジに冬月からもたらされた情報はある意味衝撃的だ。本作の画面には依然として上手と下手の間に緊張があり、スクリーン・ディレクションの文法に沿って読み進めていくと、上手側から下手側への情報統制は、その力関係を持ち越したまま上手側から下手側への強権的な情報開示に読み替えられる。下手側のシンジは、もたらされた情報のあまりの途方も無さに、その意味をよく咀嚼することができないでいる。そのようなシンジの混乱を解消する契機となるのが、カヲルとの関係における上手・下手の位置取りだ。これはTVシリーズ第弐拾四話「最後のシ者」と比較すると面白い。もちろん劇場の中でいきなりこれを脳内に浮かべるのは困難であるから、ここでは比較考察は省略して『新劇場版:Q』の事象のみを追っていく。結論を述べると、上手側のカヲルから下手側のシンジへの位置取りは、ある時点を境に上手側のシンジから下手側のカヲルへのやり取りに固定される。この「交差」および入れ替え動作のムーブメントが旧作との差異だ。特に本作ではシンジからカヲルへの好意がこの流れに沿って最後まで一貫される。はじめにカヲルが上手側に立つのは、シンジと打ち解けるためのカヲルからのアプローチに関する文脈なのである。シンジとカヲルの友好的なふれあいと連動して、本作のストーリーラインは下降ムーブメントに乗って過去の選択に対して回避的に再選択しながら進行する。セントラル・ドグマに向かって降り進んでいくのはカヲルの侵攻を食い止めるのではなく、世界の再創造のための選択であり、シンジの乗っているEVAは一人ではなく、二人で乗るEVAだ。さらに二人を阻んでいるのは初号機の腕の長さではなく、透明な仕切りであり、目的となるのはセントラル・ドグマのリリスではなく、その死骸に突き刺さった二対の槍を抜くことだ。彼らはそれを遂行するために、降り進んでいく。そんな二人を乗せたEVA13号機のコクピット画面内を注意深くみると、二人の座席からのびる平行に整列した帯の線が、中心で交差していることが窺える。ピアノ線のイメージは決して使い捨てのモチーフではなく、二人の脈動させる線の交差として象徴的に表現されるのである。

6. 株分け

上で示した交差が解かれ、一つに束ねられた帯が「株分け」されるのが、シンジがカヲルのコントロールを遮断した後の描写である。交差していた線の先は、コクピットにお互いの寄り付く形で交差が解かれ、別々の方向へと向いている。このことからも読み取れるように、やはり線の交差はシンジとカヲルの「連弾」のヴィジョンと少なからず関係していたようである。その結果、シンジは透明な仕切りにしがみつきながら、自らの選択が引き起こした惨状に崩れ落ちることになる。このときEVAのエントリープラグの外で起こっている事象が、あの回転ムーブメントの復活、フォース・インパクトの前兆なのである。そこには整序された平行線の秩序ではなく、始点と終点の直結した輪の中の混沌がある。

7. 一束の線

最後は射出されたエントリープラグからシンジを引っ張りだすアスカのシーンだ。思うに、DSSチョーカーをカヲルに引き受けて貰った際に、シンジは贖罪の機会を奪われてしまったのだと感じられる。それはニアサード・インパクトを引き起こしたことに対する贖罪の機会ではなく、自分の選択に対して責任を負う機会だ。それゆえにあのシーンには痛ましさを感ぜざるを得ない。そんな局面もアスカからみるとまた違ったものにみえたりするのだろうか。ともあれ、アスカはそんなシンジを解放してはくれない。自分でエントリープラグから外へ出ていた綾波を引き連れ、アスカとシンジと綾波は3本の線を交錯させながら「一束の線」となった足あとを砂地に刻んでいく。このように、様々に変形を遂げたムーブメントの線は、3人の足跡の軌跡に象徴的に収束していくのだ。そろそろ結論へと移ろう。

結論

絡まる、ほどける、ひっぱる……そして引き伸ばされ、交差し、株分けされて、また一束の線になる……これが本作における中心的なムーブメントの変形の概要であることは冒頭で述べた。それに対して動きの形象の変形がもたらす印象と、その変化を、7つのパートにわけて個人的な印象を交えながら示させて貰った。このような変形をもたらした『新劇場版:Q』とは一体何だったのかというと、それは1本の線として硬直した「旧エヴァのストーリーライン」の目まぐるしい変形の軌跡なのである。ところで西洋には「パランプセスト」と呼ばれる羊皮紙がある。昔は紙が高価で、一度書かれた文字を削ってその上にまた別の文字を書き記したそうだ。しかし、そこには削られた古い文字の痕跡を透かし読むことができる。そのような、一度書かれたものの上にまた別の文字が重ね書きされた羊皮紙がパランプセストだ。本作において、新しい文字は先に記した目まぐるしい変形を経た線として描かれている。どのような選択的行為があったにしろ、一つの物語としてみえてくるのは最終的には一本の線である。その一回性を打ち砕くということ……。それゆえのRedoであり、差異ある反復の物語なのである。同じ時間軸を繰り返すことによってのみ、オリジナルに対して並行するパラレルな線をひくことができる。「見知らぬ、天井」にリフレインするのは見知らぬ顔をもったかつての知人たちの顔であり、綾波が住んでいるのはコンクリートの打ちっぱなしの公団住宅の一室ではなく、自身のコピーが沢山集積されたフロアの上に立てられた天井のないプレハブである。同様にゲンドウの目的は先行されたゼーレに対して反抗的に遂行されるのではなくゼーレの意思に追従的に遂行され、綾波をエントリープラグが救い出すシンジの行動はシンジをエントリープラグから引っ張り出すアスカの絵図に置き換えられる。このように、様々な弁別単位において範列関係にある対象が意識的に選択された脈略無き「つぎはぎ」が『Q』であり、その余剰が円環の輪からはみ出した「~=ひげ」である。これらの描写は「過去の選択との差異」によってのみ、必然性を規定されるといってよいだろう。そうした本作を彩る「第九」の調べの最終章が、次作の「終止線」である。『シン・エヴェンゲリオン劇場版:||』――なるほど、平行なピアノ線のイメージと重ねられた楽譜の推移を止められるのは確かにこの終止線記号のみだ。そしてこの終止線は直立するロンギヌスの槍とカシウスの槍なのかもしれない。そんな謎掛けに対する推理を巡らせながら『Q』という棋譜をわれわれもまた反復的に見直すことで、シンジの立つ運命線上の終点へと思いを馳せることとしたい。

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