『このライトノベルがすごい!2013』のDTPデザインの話

いま手元にピンクの表紙のムックがある。メイド風のヘッドバンドをつけたイメージキャラクターが物欲しげにこちらをみている中々扇情的なデザインだ。巷にはライトノベル界隈を総括する『このライトノベルがすごい!』というムックシリーズがある。これはその最新号の『このライトノベルがすごい!2013』で、ここで毎年一年に一度発表される「ライトノベルBESTランキング」に乗った作品は、「箔がつく」といった雰囲気となっている。さて、今回はこれについて色々言いたいことがあるのだが、『このラノ』についての言及を見渡してみると、「ランキング」の順位や集計方法についての議論はあれど、誌面のDTPデザインについての言及は全くといっていいほどみない。商業誌とはいえ、ある種の「資料性」が認められる企画物なのであるから、全体を総括する視野と同様にその「見え」を規定する誌面デザインも重要だ。とはいえ、全くランキングに言及しないというのも要領を得ない記述になってしまいそうなので、まずは今年度のランキングに抱いた個人的な感想を簡単に記しておきたいと思う。

本ランキングの得票はホームページ上から投票した一般の投票者と、いわゆるライトノベルの目利きとして個別に参加している素人の投票者集団と、モニターアンケートで無作為に選ばれた中高生層の3つの異なる母集団から構成されている。そのウェイトの配分は毎度議論の争点になっており、去年はこのうち「目利き集団」のウェイトが異様に高く設定されたことが話題に上がった。しかし、編集上の意図があってそうしたなら同じレギュレーションを貫けば良いものを、今年度はまた配分を変更してしまったようである(注1)。その意図を類推する上で、本誌には次のような記述がある。

(1) 『このライトノベルがすごい!2013』 169

本書を創刊した頃は[…]「隠れた名作」が話題になる余地が確かにあった。しかしここ数年は、刊行点数や読者の裾野の広がりなどによって、かつては見いだせていたはずのそれらの作品が埋もれたままになってしまっているように思えてならない

なるほど、その問題意識は理解には及ぶ。それに続くのが次の(2)だ。

(2) 『このライトノベルがすごい!2013』 169

本書では、そうした作品に少しでも光が当てられるよう、去年よりランキングのレギュレーションの見直しを図ってきた

これは確かにいい心意気だ。しかし、見方を変えてみると(2)は、「集まった得票を元に、票数を確認しながらランキング結果を作り上げていく」という意味で言っているように読み取れはしないだろうか。そうすると編集部はランキングの結果を自由に調整することができるのだから、「ランキングの信頼性」もあったものではない。せめてウェイトの比重についての具体的な説明、および解釈の記述くらいは欲しいところだ。

そもそも(1)についても「新たな発見」みたいな話ではなく、よくよく考えてみるとごく当然の話である。「ライトノベル読者」というのも一つの文化圏を共有する一種の共同体だ。そのマジョリティ層がメディアミックス作品からラノベに流入した集団で占められると、おのずとマイナー路線は淘汰される。したがってマイナー路線を推す「目利き集団」の読み手は、自身の推す作品が浮上しなければ「目利き」の名声を得られないため、わざわざマイナー作品を推す誘因は消失してしまうと考えられる。その結果ますます共同体の「規範」意識が規定されて、選好が保守化していくという単純な話なのだ。であればこれは自然な「淘汰」なのではないだろうか。そういうことであれば、何もわざわざ「光を当てる」必要はないのだ。むしろ、表向きはホームページ投票者の得票オンリーで集計してしまったほうがより現状を反映した「クリーン」で信頼性の高いランキングになると判断することができる。

しかし「光をあてたい」という意識は、一読者としてわからなくはない。そこで取り沙汰されるのが「誰が『光をあてる』のか」という問題だ。それはつまり「目利き集団」の得票にほかならないのだが、僕はここの「目利き」の評価軸が既に信じられなくなってしまっている。彼らの選定基準もまた、「ライトノベル読者」としての「規範」を参照した保守的なものなのではないだろうか、という問題提起をさせて頂きたい。これについてはいずれまた別の機会に詳しく書くつもりだ(注2)。ここでは「目利き」の感性に懐疑を投げかける、という姿勢をひとまず表明しておくことに留めておく。そもそも、対象作品リストの作品全ての知名度が同一なものとして認知されていない以上、その中から本当に優れているタイトルに順位をつける「質的ランキング」ではありえないのだ。投票者は「自分の読んだ作品」の中でしか票を入れようがない。そして個人が読める本の冊数には限界がある。その中で「目利き」の投票傾向と「一般投票者」の投票傾向が何ら相関を示さないと仮定しても、そこに現れる結果は「どれだけ沢山作品を知っているか」の差異だけでしかなく、マクロな視点でみると大枠では選好の基準はそう変わらないのではないか、と冷静に推論を立てることは充分可能なように思われる。要約すると、仮に「一般投票者」が同じ「投票可能リスト」を共有していた場合、「目利き」の投票と相関関係が見いだせる結果になるのではないか、という主張だ。そもそも別枠で集計されている目利き、つまり「協力者アンケートトップ10」(2012:53)で挙げられているのもわずか10作である。はたしていまや1年で1000冊近く刊行されているライトノベル市場の中で、これらのタイトルがどれだけ影響を及ぼせられるというのだろうか。個人的には「目利き」の選好が有意な結果を及ぼしているとはとても考えられないのだが、これについては僕も深い関心を抱いているので異論があれば遠慮なく指摘して頂ければ幸いである。

さて、以上から本ランキングの有用性について疑問を呈させて貰った。「選者の目」という恣意性のある票の合成が行われている以上、その正当性を説得的に主張する記述および、そのための視座を本書の中に見出したくなる。そこで本書が情報誌として、ある種の一貫した脈略を持ち合わせているのか、という話へともっていきたい。一冊のムックとして目がいくのはやはり、誌面構成とその「見え」を規定するDTPデザインである。これらの中に「選者の目」を統括するヴィジョンが読み取れるのであれば、本ランキングの結果も適切な編集が下されていると判断し、意義の見いだせる得票結果として認める立場をとりたい。しかし結論から言ってしまえば、『このライトノベルがすごい!2013』は例年に比べそれに相応しくない誌面構成であると言わざるを得ない。実際、見開き単位ではデザイナーの苦労が偲ばれる凝ったデザインではあるのだが、先に指摘した包括的な視野の欠如を強く読み取ってしまう。正直、私的な感想を述べれば「通読するに堪えない」。

DTPデザインに関して僕は本職の者ではないので、読者目線から何が重要であると考えるのかをここで簡単に述べさせて頂く。ムック本におけるページレイアウト、および表意デザインの統制には特集ページの話題のコンテクスト性を視覚的に明示する機能があると僕は考えている。もとより話題が散漫で読者が自分の関心のあるページだけ拾い読みすればそれでいい雑誌であれば、それぞれ趣向を凝らした誌面デザインであってもよいだろう。しかし本書は企画物である印象が強い。それにしてはライターの書いている文章の趣向、端的に言えば想定読者層にはバラつきがあるように感じられる。ランキングの結果だけをみたい読者に対しても詳細な分析記事を無理やり読ませなければならない謂れはない。だからといって記載する必要が無いというわけでは全くない。本ランキングには恣意性のある編集意図が見え隠れしている以上、それを説明する必要性は生じるものと考える。しかしそれをわざわざ読み難い誌面構成および段組で組んでいるように感じられるのは穿ち過ぎだろうか。読者目線に立つと、そもそも誌面構成のレベルで話題の共通性がないような場合、むしろ誌面デザインを統一性をもたせて強制的に「同一コンテクスト」感を強調したほうが読み易いように思われる。

次に注目したいのは「特集のコンテクストの重さ」と「視線の誘導」という観点である。本書には簡単に分類して「軽い記事」と「重い記事」がある。特に前者は版権イラスト素材を多様しており、同時に大きな文字で段組されているが、後者は誌面の節約のためにぎりぎりまで詰めた段組を施している。この切り分け自体に異論はない。しかしこのように大きくテイストが異なる以上、両者の間で「視線の誘導」を行う誌面の導線に断絶があることが大変気になってくる。それに記事のコンテクスト性の多寡に大きなギャップがある以上、「特集の配列」は大いに重要な要因なのだ。ここでは『このライトノベルがすごい!2013』(以後『2013』と表記する)と『このライトノベルがすごい!2012』(以後『2012』と表記する)を簡単に比較することで面白い相違が読み取れたので簡単に紹介しておきたい。興味が無い方は次の2節は読み飛ばして頂いて良い。

『2012』は冒頭のランキング発表からイラストレーター部門へ入り、一位のブリキ氏特集からイラストコーナーへと突入して『僕は友達が少ない』の情景が自然と喚起され、以下2位-10位の発表の後にカントク氏のイラストギャラリーへと繋がれて特定作品の虚構イメージへと誘われる好感のもてる導入だ(2011:2-21)。そこからライトノベルキャラクターを紹介していく「キャラクターズピックアップ」が間に入って、本命の各種ランキング関連の記述が続く。この後が特に良い。アサウラ氏のインタビュー(2011:62-69)から書店売上ランキング(2011:70-75)に繋がって、縦の眼球の動きを維持したまま文章を読ませる構成となっている。間に「目利きコーナー」(2011:76-79)の横の段組が入るが、特集のコンテクストの重さの釣り合いがとれており、まだ頭は「文章読みモード」のまま、さがら総氏インタビュー(2011:80-85)に入ってブックガイド(2011:86-165)と、通読を意識した無理のない紙面構成でストレスなく読める。誌面見開き、右上の一番真っ先に目に入る空間にコンテクストの範囲を規定する情報の提示が多くにあり、文字を追っていたフォーカスの先が急にどこかへ飛んでしまうということもない。

しかし『2013』は全然誌面の構成が違う。BESTランキングまとめの見開き2面(2012:50-53)の次にいきなり段組の違う山形石雄氏インタビュー(2012:54-63)が入り、ランキングの詳細を読んでいたはずがそのコンテクストが切断されてしまう。インタビューが終わると部門別ランキング(2012:64-71)に復帰し、「目利きコーナー」(2012:72-75)と繋がれるが、本文一文字目の始まりの位置がどのページもばらばらで目で文字を追うだけで一苦労だ。これだけ段組も視線誘導も異なるページが続くと、もはや「誌面の導線」という水準ですら無くなってくる。極めつけはそのすぐ後、フォント、文字サイズ共にバラバラの「心が震えた名セリフ!」(2012:76-81)。ここまででたらめな段組を続けてみるともう冊子を放り出して壁に投げつけたくなってしまう。こういうデザインだとわかってはいても、とてもじゃないが「名セリフ」の一つ一つを読んでいこうという気にはならない。本当に読者に誌面を読ませる気があるのか思わず首を捻ってしまう。その後にブックガイド(2012:82-159)が続くが今まで気にならなかった細部の段組も気になり始め、落ち着かない気分のまま最後まで読み切ると、「売り上げランキング」(2012:160-165)に繋がれるが時既に長文を読む気力は失われている。そういうモチベーションのまま読むのが冒頭で引用した「ソーカツ」(2012:166-169)である。ライトノベル情勢を明文化しておく意義は資料的価値を考慮すれば理解できるが、具体的な考察が欠けており、どうやら編集部も全体像を追えているわけでは無さそうなことがぼんやりと伝わってきてしまう。今まで読んできたランキングは一体何だったのか、という話だ。

そして極めつけは「キャラクターズピックアップ」(2012:20-32)のやっつけトリミングである。素材の問題もあるので強くは言えないが、それにしても絵の端が切れ過ぎの酷い切り抜きではないだろうか。文字の段組も見開きごとにバラバラで、『2012』と比較するとここの出来が一番差があるようにさえ思えてくる。ところで日本語学・言語学研究者の泉子・K. メイナードはライトノベルに関する研究書『ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察』(2012)の中で次のような興味深い指摘をしている。

(3) 『ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察』 262-263

11.1.2 投錨とリレー

ここで、バーバル記号とビジュアル記号は、異なったシステムを交錯し、融合することで相乗効果をあげるというBarthes(1977)の研究に触れておこう。Barthesは投錨(anchorage, anchoring)とリレー(relay)という表現でその関係を二分する。

[…]

ライトノベルの文章とカバーデザインは、新聞に記載される写真とキャプションの投錨関係というより、映画のようなリレーの関係にある。バーバル記号(本文)とビジュアル記号(イラスト)が何重にも重なり合い、融合し合いながら、全体として相乗効果をもたらしているからである。

メイナードの指摘に便宜上ひとまず同意を示すとして、これらは先に挙げた「キャラクターズピックアップ」のコーナーに言及する上で有益であろう。いわば、ライトノベルのキャラクターはイラストと本文の記述が相互的に作用し合って、動的な時間感覚の中で表象される。それも非常に強度のある表象だ。本来的にそういうものとしてのみ、ライトノベルの中の個別のキャラクターのイメージは理解されると言ってよい。それに対して「キャラクターズピックアップ」の記述は投錨的なものに留まる。投錨というのはイラストと、それに対して説明的な機能をもつキャプションとの関係のことだ。このキャプションは確かに「キャラクター」を説明する機能はある。しかしこのイラストが端で途切れているというのはどうか。むしろこの「途切れたイラスト」を「説明的キャプション」が投錨する「キャラクター」は、リレー的な関係で理解される本来的なキャラクター表象に対して差異あるものとして受け止められはしないだろうか。特に「途切れたイラスト」は「作り物」感を連想させる分没入およびイメージの形成にとって有害である、とさえ言える。たとえ編集者がメイナードの研究書を抑えていなかったとしても(そう考えたほうが自然ではあるのだが)、普通に考えて「仕事のクオリティ」として問題がある水準であることには気が回りそうなものである。これらを綜合して「キャラクターズピックアップ」のコーナーを三度読みなおしてみると、これはいささか混乱した「キャラクターの標本展覧会」の様相を呈しているように思えてならない。こうしたライトノベルキャラクターへの洞察および配慮の欠如から鑑みても、『このライトノベルがすごい!2013』には厳しい意見を投げかけざるを得ない。

そろそろ結論をまとめていこう。本ムックには前年度とは異なるランキング集計のレギュレーションが適用されており、それを説明する説得的な記述が見当たらない点と、そもそも商業誌のムック本として通読するに堪えないような誌面デザイン上の不備が『2013』には見受けられることを指摘してきた。さらにライトノベルキャラクターへの認識一つとっても、やや不安の残る一面を浮き彫りにしている。これらの意見は何も純粋に本書を手にとってガイド通りにランキングの本を手にとりたいと願う読者層の心意気をくさすものではない。しかしそれと切り分けて、冊子の出来については現実的な判断が必要であると僕は考えている。なぜここまで固執するかというと、それは本書がライトノベルという一つの文化圏を代表するものとして権威付けがなされているからだ。本書のランキング順位は書店における作品展開である意味「政治的」に利用されている。いや、むしろそれこそが本書の存在意義なのだと言えるのかもしれない。このようなムック本の「方向付け」によってライトノベルを手にとった読者が、その印象をもとに作品を生産して次の世代のライトノベル作家が生まれていく――このようなプロセスの中で、ある文化の「再生産過程」として、そこに『このラノ』が食い込んでいるからこそ、ここまで深刻に危惧しているのである。

僕は「ライトノベル」の作品そのものが好きなのであって、好き好んでこういう議論がしたいのではない。そろそろ純粋に作品だけを話題にすることに徹したい今日この頃である。

【注釈】

注1.http://togetter.com/li/410148 2012年11月20日閲覧

注2.書きました。→「『脱=ライトノベル読者』宣言 序説

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