Google+のイベント機能について

長らく放置していたGoogle+のアカウントを先日削除した。

個人的に考えている、自分にとって心地の良いネットコミュニケーションの形態とそぐわなかったこともあり、もともと積極的に使用していなかったソーシャルメディアであったが、それでもサークルの構成員から通知される「イベント」については頻繁に目にしていた。全くの無反応を貫いていたのは全面的に僕が悪いので、関係する個人には具体的な名前を挙げずにここで一旦詫びを入れておく。お誘い頂いたのに答えることができずに申し訳なかった。またつながる機会があれば直接お話しさせて頂くことにしたい。それはさておき、今回の話の種はこの「イベント機能」についてである。

おそらく、ごく内輪のクローズド・サークルにあってはこのようなサービスは大変使い勝手がよいのだろう。主催者は頻繁にメーリングリストを参照して一々文章を書き上げなければならず、定型文は種々の異なるイベントに対してあまり汎用性があるとは思えない。それをシンプルなUIを操作するのみで予め登録済の「サークル」に対して一括送信できるのは、イベントを主催するにあたって大変「招待コストが低い」。招待された人間にとっても「システムからの通知」は一種のコード化がなされており、具体的なメールの文面がなくても意味を理解することができる。しかし僕はこの「イベント機能」、つまり個人の招待プロセスをシンボライズするUIに馴染めなかった。

端的にいうと、システムから送信されてくるメッセージが「声として感じられない」のである。これは実に本質的な問題だ。常日頃からイベントの主催者にイベント内容について聞かされており、簡潔な出欠確認のためだけに用いられているのであれば僕は躊躇なく送信ボタンを押していることだろう。大学サークルや、個人の友人関係で予めアカウント情報を共有して使用するのであれば何の問題も無かった。しかしこれが実名を知らず、居住地も知らないネット上のコミュニティとなると話は別である。僕はどうしてもこのシステムからの通知に据わりの悪い違和感を感じずにはいられなかった。イベントとは無関係なイメージ画像も違和感に拍車をかけている。システムがシンボライズするのはこの架空のイメージであり、よくわからない画像のキャプションとしてイベント詳細のテキストが意味を投錨している。僕にとって招待者たちは決して知らない人物ではなかったが、日常の友人たちと比べれば依然として「識らない人物」であり、システムに表象されたイメージと実際のイベントへのイメージの不一致が「得体の知れない不気味さ」として映った。送信ボタンを押してしまうと、一体僕は「何処へ」連れ去られてしまうのだろうか?

Google+とはなんてことはない、「実生活で予めつながった」人同士のためのソーシャルメディアであり、僕にとってはつながりの「距離」を連想させる孤独なサービスであった。したがって、僕は人とやりとりをする手間を惜しまずに、改めて一件ずつ個別に声掛けしていく所存である。

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