「中学校にラノベを導入するべきか?」という話

Twitterのタイムラインで、中学校の図書室へのライトノベルの導入に関する@trumpe3128氏のつぶやきに端を発した議論を見聞きし(※注1)、それに対する@numenunu氏の応答(URLは後述)をみて「それはちょっと違うんじゃないか」と思ったので、教育機関の図書はどうあるかべきかについての「べき論」を、僕の個人的な意見として書き連ねていく。

まず話の流れを整理するとこうだ。

とある一般書店の外商部が、学校法人もしくは地方公共団体の機関である中学校にライトノベルを納入するための営業を掛けるにあたって、具体的にどのようなラインナップを提案すれば良いのかを、担当の社員が売場のライトノベル情勢に詳しい書店員のtrumpe3128氏に相談を持ちかけたというシチュエーションである(と僕は理解している)。

この時点で実際の納入はまだ行われておらず、世間話的なニュアンスの可能性も加味し、一般論として「これこれこういった図書が納入されるべきである」というべき論を中心に議論が展開されていると判断して、この先の話を進めていきたい。上の流れに対するnumenunu氏の批判は次の通りである。

もっと中高生の読みたいラノベを考えろ – 主にライトノベルを読むよ^0^/

氏の主張の核心部分を引用する。

中学生に読ませたいラノベねぇ・・・そうですかはぁ

いやまあ納得のラインナップだけど。それ中高生が読んでくれると本気で思ってる?

これに続いて主張の根拠となるのが以下のくだりである。

まず自分の身にあてはめて考えてみようよ

中学校の図書館にいって、10年も前の、名前程度しか知らない、クラスのみんなも読んでない、イラストも古い、10巻以上も巻数があるシリーズ作品が置いてありました。あなたは借りますか?

普通借りないよね。借りる?別にいいと思うよ。で、借りてそのシリーズ読破して。その読書体験を誰と共感するんです?

氏の主張から伝わってくる熱意には敬意を払いたいと思う。しかしこの議論で重要なのは、上のような問題意識ではない。本当に考えるべきなのは、「誰の目線から考えるか?」という立ち位置の問題である。それに関して僕は、実際に本を手にすると考えられる生徒の立場ではなく、図書の納入に関する一切を決定する、強いて言えば「大人」の立場からの主張を展開していくべきだと主張したい。

実際問題、「子どもに読ませる(べき)本」についての議論というのは、存分に教育的配慮の必要な話である。

社会的使命として目録にある種の網羅性を要求される公共の公立図書館とは違い、比較的小規模な教育機関である中学校の図書室には現実的な制約として書架のスペースが限られるものと想定される。このケースで挙げられている仮想の納入先を、ごく一般的な公立中学校であると仮定しよう。そこでは、限られた収容力の中で「いかなる図書の目録を用意する(べき)か?」という判断には、先述の公立図書館とはまた違った意味で公共性を要求されるはずである。実際に学校側が明確な問題意識をもって保護者会を開き、「生徒がアクセスできる知的体系」としての図書目録を作成するという選書過程のシチュエーションをすべての公立中学に関して想定するのは難しい。であるが、上記の議論はそもそも「一般論」として議論されているわけだから、こういう想定も可能なものと考える。

さて、ここで取り沙汰されるのが「どういうラノベを中学校におけば良いのか?」という例の議論である。

もうお分かりの通り、これはラノベの具体的なラインナップというよりも、問題の本質としては「何故置くのか?」が議論されるべき局面である。中学校に納入されるとするラノベは、その代わりに納入されるはずだった図書との関係から考察しなければならない。代わりとは何か。ここでは僕の意見として、ちくま・学芸・岩波・平凡社・河出・講談社学術文庫などのいわゆる「教養文庫」の類を仮定する。これらをテーマに沿って一通り揃えるだけで本棚のかなりの面積を占めるだろう。ラノベを置くとなると、こうした図書を置くことのできるスペースも限られる。だが果たして「教養文庫」なぞ入れて、「中学生が読めるのだろうか」という向きは当然あるように思える。しかし、「内容を理解できること」と「アクセスできること」の間には相違があるはずである。「中学生には読めないかもしれない」からといって、その知的体系へのアクセス手段を収奪してもよい、ということにはならない。そうした、中学生がアクセスしうる知的体系の目録を準備することが、中学校における図書室の役割であると、僕は個人的に強く考えている。ゆえに、僕の立場から先の主張を見聞きすると「それよりもまずやるべきことがあるのでは?」(=本来はラノベよりも先に「教養文庫」を整備することが先決のはずである)と感じてしまうのである。したがってnumenunu氏の主張も(僕にとっては)全く説得力をもたない。

とはいえ、何も「図書室にラノベを入れるな」と主張しているわけではない。僕は中学校にラノベを導入するにはそれ相応の説得的な理屈が必要である、ということを強く指摘したいのである。その理屈はラノベの具体的なラインナップの話などでは全然なく、むしろその他の図書と比較して敢えてラノベを導入することの意義を問う極めて理念的な話である。ある意味、教育機関に目録としてリストアップされた図書を売りつけることのみを至上命題とするtrumpe3128氏の理屈のほうが、筋が通っているとさえ言える。それに対して、改めてnumenunu氏が主張しなければならない理屈とはどういうものか。

それは「子どもに〈物語〉を読ませる意義とは何か?」という性質の話に等しい。生徒に読ませるべき図書を選定する正当化ロジックとなるのが、俗にいう「権威」である。芥川賞受賞作や、直木賞受賞作や、児童文学などというのは大変分かりやすい。言ってしまえば、選書業務を行う大人が明確な指針を持ち合わせていなくても、目録に加えてしまえるといってよい。それに対し、ラノベ図書の推薦者が採りうる戦略というのは、その権威性への批判ではないだろうか。これは売り手側のtrumpe3128氏、読者側のnumenunu氏の双方が採りうる戦略である。「権威さえあれば、生徒に読ませるべきではない内容の物語を読ませても良いのか」、あるいは「何故それがラノベでは駄目で、文芸小説では許されるのか」という主張だ。これは説得される側の大人としても耳の痛い指摘である。そこで仮に「生徒には、生徒の学校生活の実情に即した物語を読ませることに、教育的な効果がある」と主張してみることにしよう。そうすると、提案者は当然選書に権威を利用することが出来なくなる。より的確にいうと、推薦者は提供する目録に一切の価値判断を行なってはならない、ということに等しい。何故なら、生徒が広範なラノベ図書の目録にアクセスできることに、生徒の多様な価値観を醸成する余地があるという趣旨の論旨から、正当化を行う理屈だからだ。

例えば先のエントリ中で挙げられているtrumpe3128氏のエントリ(※注2)のベーシックプラン(『キノの旅』、『イリヤの空UFOの夏』、『半分の月がのぼる空』、『バカとテストと召喚獣』、「文学少女」シリーズ、『十二国記』)の提案に同意しないことができる代わりに、それを否定することもできない、ということになる。むしろ、既存の提案とそれを批判するようなラインナップに関して同時に選書を行うことがフェアだと言えるだろう。もしnumenunu氏がtrumpe3128氏の提案を、説得的に否定したいのであれば、これに代わる新しい理屈を、「生徒」の心情に訴えかける形ではなく、「大人」の公共的な判断に問いかける形で、説得力のある提案を自ら行わなければならないものと考える。でなければ、この話題は机上の空論として、氏の主張は広範には受け入れられないことだろう。そろそろ結論へと入っていく。

本エントリでは、numenunu氏の主張の取る立場の根本的な拙さを指摘し、そもそも中学校にラノベを導入するにはそれ相応の説得的な主張が必要であることを、ラノベの代わりに選書されうる(トレードオフの関係にある)図書(ここでは「教養文庫」とした)との関係から述べた。そもそも氏は何故ここまでラインナップの内容に固執するのだろうか。積極的に行動する熱心な生徒であれば自分で書籍を購入するであろうし、そうでなければ図書室の既存の蔵書の範囲内で、クラス内に図書の感想を述べ合う交流が生まれるだけだろう。それに視野を広げれば、地域の公立図書館との連携の道を模索してもよい。つまり問題の本質はラノベのラインナップではなく、中学校にラノベを導入するとはどういうことかという議論である。それを行わずして、有意義な議論が展開されているとは言い難い。最後に僕の立場から、自分の主張も簡潔に述べておきたいと思う。

先にも述べたように、僕も中学校の図書室にラノベが置かれること自体は否定しない。むしろ歓迎したい節もある。しかしそれよりも重要なのは、ある種の「知的体系」へのアクセスの場としての「図書室」であり、そもそも地方公共団体がそれを自主的に整備していくべきである、という主張である。僕自身は地方の公立中学校出身であり、地方のそれ、つまり文化資本が充分には整備されていない現状を目にしてきた。それはある種の「格差の再生産」とも繋がりうる。整備された目録をどう扱うかは生徒個人の手に委ねられているにしても、そこへのアクセスが可能かどうかという、「機会の平等」は保障されているべきだ。その観点に矛盾しない範囲であれば、僕は図書室にラノベが置かれること自体には賛成も反対もしない。

しかしそのラノベ図書の目録にもまた、ある種の公共性が担保されているべきであろう。

【注釈】

注1. http://togetter.com/li/421250 2012年12月14日閲覧

注2. http://trumpe3128.blog.fc2.com/blog-entry-135.html 2012年12月14日閲覧

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Google+のイベント機能について

長らく放置していたGoogle+のアカウントを先日削除した。

個人的に考えている、自分にとって心地の良いネットコミュニケーションの形態とそぐわなかったこともあり、もともと積極的に使用していなかったソーシャルメディアであったが、それでもサークルの構成員から通知される「イベント」については頻繁に目にしていた。全くの無反応を貫いていたのは全面的に僕が悪いので、関係する個人には具体的な名前を挙げずにここで一旦詫びを入れておく。お誘い頂いたのに答えることができずに申し訳なかった。またつながる機会があれば直接お話しさせて頂くことにしたい。それはさておき、今回の話の種はこの「イベント機能」についてである。

おそらく、ごく内輪のクローズド・サークルにあってはこのようなサービスは大変使い勝手がよいのだろう。主催者は頻繁にメーリングリストを参照して一々文章を書き上げなければならず、定型文は種々の異なるイベントに対してあまり汎用性があるとは思えない。それをシンプルなUIを操作するのみで予め登録済の「サークル」に対して一括送信できるのは、イベントを主催するにあたって大変「招待コストが低い」。招待された人間にとっても「システムからの通知」は一種のコード化がなされており、具体的なメールの文面がなくても意味を理解することができる。しかし僕はこの「イベント機能」、つまり個人の招待プロセスをシンボライズするUIに馴染めなかった。

端的にいうと、システムから送信されてくるメッセージが「声として感じられない」のである。これは実に本質的な問題だ。常日頃からイベントの主催者にイベント内容について聞かされており、簡潔な出欠確認のためだけに用いられているのであれば僕は躊躇なく送信ボタンを押していることだろう。大学サークルや、個人の友人関係で予めアカウント情報を共有して使用するのであれば何の問題も無かった。しかしこれが実名を知らず、居住地も知らないネット上のコミュニティとなると話は別である。僕はどうしてもこのシステムからの通知に据わりの悪い違和感を感じずにはいられなかった。イベントとは無関係なイメージ画像も違和感に拍車をかけている。システムがシンボライズするのはこの架空のイメージであり、よくわからない画像のキャプションとしてイベント詳細のテキストが意味を投錨している。僕にとって招待者たちは決して知らない人物ではなかったが、日常の友人たちと比べれば依然として「識らない人物」であり、システムに表象されたイメージと実際のイベントへのイメージの不一致が「得体の知れない不気味さ」として映った。送信ボタンを押してしまうと、一体僕は「何処へ」連れ去られてしまうのだろうか?

Google+とはなんてことはない、「実生活で予めつながった」人同士のためのソーシャルメディアであり、僕にとってはつながりの「距離」を連想させる孤独なサービスであった。したがって、僕は人とやりとりをする手間を惜しまずに、改めて一件ずつ個別に声掛けしていく所存である。