それは、己の〈視線〉を発見する物語――映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」

 

浜路ちゃんが本当に可愛かった。

もう始まった途端から彼女の無防備すぎる感情表現にめろめろになってしまい、にやにやしたり、きゅんきゅんしたり、うるうるしたりとせわしなかったが、全編通してとてもリラックスしてみれたように思う。猟銃で仕留められて一筋の涙を流す犬の感傷に引きづられるように、犬鍋を前に浜路ちゃんは「一人じゃ食べきれないよぉ」と泣きだしてしまうのだけど、それに重ね合わせるように語り手が手際よく「祖父の喪失」と兄の道節からの便りを手がかりに山を降りる彼女の境遇を説明し、物語の土台が編みこまれていく導入も素晴らしかった。

本作の特徴はなんといっても、語り手の語りによって始まり、終わる点である。物語が進むに連れてどうやら「入れ子」に物語が編まれているらしいことが明らかとなる。鉄砲玉の直線の軌道、2人から1人への量的変化がもたらす釣り合いのとれなさ、手紙の送り手と読み手を繋ぐ関係の線なども、物語を説話論的に繋ぎあわせてゆくモチーフの一つだ。物語が真に「終わる」のは、ヒロインとその想い人が抱き合った引きの瞬間ではなく、読者が本を閉じる瞬間であり、キャラクターの行為が筋を消化し終えた瞬間ではなく、語り手が語りを終える瞬間なのである。こうしたつくりに目を向け、詳しく特色を述べていくことにしたい。それにあたって主に読み手が視聴済であることを想定して本稿を書くが、筋よりも構成への着目に重きを置いているので、未見の方も分からない情報は読み飛ばして読んで頂いても良い。キャラクターの名前については、公式サイトの紹介ページを下記に挙げておく。

http://fuse-anime.com/character/

1. 語りと描写

本作はつまり、冥土の読本(よみほん)の翻案である。それを「上演」するに当たって冥土は自ら語り手を引き受けるが、同時に作者である自身も一種の「媒介者」として物語に登場する。彼女の物語の登場人物である浜路や伏の面子は究極的にはその存在を前提としない二重にフィクショナルな人物なのであるが、物語の「読み」においてそれは重要な問題であるとは言えない。ここではその関係の仕方が焦点となる。冥土は浜路が物語を進む傍らで時折その存在をアピールする。橋を渡りきった先、欄干にもたれて書物をする冥土、カメラ目線で受容者に合図を送って「ぐしし」と笑う冥土、などである。そんな物語の「書き手」である冥土と(その物語の主人公である)浜路が「繋がる」ことで、語りの視座は物語世界の中へと引き下ろされる。

冥土が特に入念に描写するのが浜路という少女の「変幻」である。山から降りてくる浜路の外見は中性的だ。実際「坊主」として扱われて訂正する場面が出てくるが、これもまた浜路の未分化のセクシュアリティを印象付けている。しかし決定されていない、ということはどちらにも「変幻」し得るということだ。

「なること」の同時性……。

〈男であること〉と〈女であること〉は両立し得ないが、〈男になること〉と〈女になること〉は並行可能である。その結果、例えば吉原の仕立屋の主人は〈女であること〉を選択した男となるが、浜路はその選択を留保された主体として、パラドキシカルではあるが本作においては同時に二つの方向への基礎付けが行われる。〈男になること〉を含意するのは若侍の男装であり、〈女になること〉を含意するのは信乃から贈られた着物と簪である。しかしそれは外装による「変幻」であり、浜路のパーソナリティとして定着するわけではない。それらは〈あること〉ではなく、依然〈なること〉を含意するに留まる。

これこそが「伏」の「変幻」の本質を射抜く描写ではないだろうか。

すなわち、「伏」は〈人になること〉と〈犬になること〉が同時に基礎づけられた主体として、”人間の皮膚”という外套をまとった犬として人の営みに紛れ込んでいる。その生命が尽きた瞬間、〈犬であること〉が決定され、最初からそうであったかのように毛皮の外皮を得るというのも理解に及ぶだろう。

2. 〈繋がる〉の説話論的構造、あるいは〈あいこ〉の倫理性

次に指摘したいのが、本作の語りの形式性である。脚本による説明的な台詞回しが少なく、よりよい鑑賞のためには俯瞰して”物語の形”を捉える必要がある。そのためのヒントとなるモチーフが銃だ。

銃身から発射された銃弾の弾道の直進性が、浜路特有の言い回しである〈繋がる〉を理解する鍵となる。要はこの始点と終点に置かれる両者の関係性のことである。それがミクロの領域では狩猟のモチーフから対話の関係に及び、マクロの領域では行為者と物語の対象とを結んでいる。話を映像表現と結びつけて拡大していこう。人間に対して脅威となる伏は生珠を食糧とする必要があり、信乃は人間から生珠を採取する。このとき信乃の腕は人間の身体を突き刺し、丸い風穴を人体に空けるが、この円が銃槍を連想させるのは偶然ではないだろう。浜路の狩猟と信乃の生珠喰いには意味連関が読み取れる。ゴロツキに絡まれた浜路を助けに来る信乃があけた風穴の向こうにお守りが映されるショットは記憶に残りやすい特異なレイアウトだが、後にそれと相似的に円のフレームの先に江戸城の全景が収まる映像が繋がれ、物語の転換を印象付けている。浜路のあける銃槍は狩猟者と獲物に1対1の関係性をもたらすが、信乃のあける「銃槍」はキャラクターと物語の対象を〈繋げる〉のである。このような認識可能な反復によって認知される物語の蝶番的要素を「説話論的構造」と呼ぶ。

異なる二者を〈繋げる〉説話論的構造を表現するのがあの銃弾の直進のムーブメントであったとすれば、その二者の関係を貫くのは狩猟者の倫理である。それが浜路のいう〈あいこ〉だと僕は理解している。狩猟の営みの中には、追う者と追われる者の関係の非対称性がある。それはキャラクターと物語の対象であっても同様だ。「物語の目的」がキャラクターを追うのではなく、キャラクターが物語の目的を追うのである。それに狩猟者の恣意性を持ち込むということ……。狩られる獲物は狩猟者を選べない。しかし浜路の祖父が熊に襲われて命を落としたように、マクロな視点でみれば狩猟者と獲物にある受動と能動の関係は逆転し得る。浜路の中にはそうした狩猟者特有のフィフティ・フィフティのおあいこ精神が価値判断の主軸となっているのだろう。であるが、江戸にきてすぐ兄の道節と行った「伏狩り」はその天秤を均衡させる狩猟行為とは成り得なかったことが思い出される。狩猟者の倫理は、時に道節を射抜く軽蔑・嫌悪の眼差しとなって立ち現れる。

それを〈あいこ〉にするということ……。

こうした浜路の中での意味の読み替えが、伏狩りという道節兄妹の目的から、女として信乃を追う狩猟者の恋路へと〈繋がる〉。

3. 幼子―少女―女―母

本作では浜路という1人の少女の「変幻」と並行して、〈女の一生〉とでも形容できそうな「幼子―少女―女―母」という主題が中心を貫いている。それは特に凍鶴・浜路・船虫を中心として展開される。凍鶴の「あんた、女になるのが怖いんだろう?」は浜路の身のふりを規定するヒントとなるが、浜路を中心軸として凍鶴と対照されるのが船虫である。船虫の対面するのは、鑑賞者にとってはあの”おあいこ”の天秤が傾いた卑俗な狩猟者の印象を引き摺った道節だ。二人の関係性は船虫の逡巡するこのとき、はじめて深入りして描写されるといっても良い。本作にとっては語りと描写が全てであり、物語に直接関係しない因と果は重要ではない。母として〈女であること〉を語る凍鶴と、〈母になること〉に逡巡する船虫を、「幼子―少女―女―母」という一筋の線に〈繋げる〉のが信乃を追う狩猟者としての浜路であった。

4. フィクションの上演――伏姫物語と治世の物語

劇中でなんといっても目を引くのは、「書割の背景」である。物語の序盤で作為的に挿入される、あの背景と合いの手は、観客を物語の没入から浮上させる。言わば「これが物語であることを強く認識させられる」。その演出に少なからぬ印象を抱いていたのだが、それが歌舞伎の演目「贋作・伏姫物語」と、ラストバトルの信乃・家定戦へとリンクする構成が大変美しかった。本作には作中作となる「伏姫物語」のレイヤーがあり、それとの関係から信乃と家定の闘いも一つの「演舞」として鑑賞できるのである。そこで〈上演〉されるのは、言わば徳川の世を治める者の「治世の物語」だ。家定の村雨丸への心酔は、脚色された統治者のプレッシャーとも読み替えられる。そこで自らの統治行為に対して、ある種の「物語的把握」がなされると言えよう。そのような態度に自覚的なのが本作の特色だ。

「伏姫物語」の中で自らの起源である「人間の母」を演じるのが信乃であり、彼の生きる「伏せる物語」を共存の物語に再解釈して詠唱するのが馬琴である。前者は歌舞伎座をその虚構物語の境界とし、後者は浜路たち江戸の町民の営みを包み込む物語である。そして彼らを別の「正統」の系から記述し直そうとする物語行為が統治者である家定の物語だ。そこで対面するのが「伏せる物語」の詠唱者である信乃と、伏を駆逐する正統のための「治世の物語」を唱える家定となる。燃える江戸城の城内で、色鮮やかなふすまが立体の書割の背景を成している……。燃え上がる炎はまるで信乃の怒りと激情の感情のようだ。そして家定の村雨丸は、水流の剣で信乃の炎を断ち切ろうとする。あれはそういう演舞であり、それゆえに美しい演武者の舞にため息が洩れそうになった。そして「物語る」勝負に負けた家定は、あの起源へと渦を巻く渦巻き模様の中で、〈赤子〉へと回帰するのである。

5. 物語を見下ろす〈視線〉の発見

最後に物語を〈繋ぐ〉のは、江戸城へと追撃する信乃と、走る浜路とを結ぶラインだ。このくだりは、画面上手側から下手側へと直進する信乃をメインとしたスクリーン・ディレクションで表現される。江戸城を目標に右から左へと走る信乃の映像の直ぐ後に、位置関係を継承して同じムーブメントを描く浜路の映像がつながれる。すると信乃の侵攻はむしろ逃避の運動にみえてくる。さらに上手は一般的に「未来方向」、逆に下手は「過去方向」と表現される事例が多いことを加味すると、信乃の進む経路は映像のレベルで「過去への回帰」の印象を与える、といっても良い。ここで狩猟者と獲物の非対称の関係は、恋する乙女と意中の男のそれに読み替えられ、「伏せる物語」を演舞し終えた信乃を「捕らえる」浜路の姿は、彼女を主人公としたラブコメディにメインの筋が乗り換えられたことを暗示する。裾を上げ、身体にフィットした着物は彼女の「在り方」を規定する衣装だ。簪を失い、髪を解いた姿が逆説的に〈女であること〉を表現しているといえる。さて、ここで物語が終わればよくある「男女のラブストーリー」だ。だが本作はここでは終わらない。終わりの句を唱えることで、〈物語〉は真に語りを終える。ここにある重層的構造こそが、「どのラインで読むか?」という問題提起を浮き彫りにしている。

本作には矛盾する二つの鑑賞態度が想定できる。一方は物語内容に深く感情移入し、虚構世界に没入する読みのラインであり、他方は俯瞰した視座から〈物語〉の全体像を捉える読みのラインだ。全体像を視野に収めるということは、己の視線に自覚的になるということだ。あなたは、あなたが物語を見下ろす自らの〈視線〉を、そこに発見するのである。そろそろ結論へと入ろう。

6. まとめ――パラレルな〈読み〉のライン、あるいはそのスポイル。そして……

本稿では『伏 鉄砲娘の捕物帳』の中心を貫く〈物語〉の形式性に着目し、そこで称揚される「物語ることの肯定」の内容を解題した。

語り手の〈語り〉によって物語は始まり、その虚構世界の中で「伏姫物語」の虚構物語が入れ子となるが、その中を生きる信乃の「物語の境界」を侵犯する自己変革の「語り直し」の物語行為と、それと相対立する家定の個人史的な「治世の物語」が、語り手を争い合うイメージを表現した〈演舞〉となって見せ場を彩り、それらを浜路の「恋の物語」としてもう一度語り直した冥土の創作が、全体を包み込んでいる。「ぐしし」と笑う冥土の、あの不敵な笑みが瞼の裏に浮かんでくるようだ……。水面を覗きこむと、そこには語り手の身体が映り込んでいるのである。

あの幕引きは、物語られた虚構世界のキャラクターとの遭遇を暗示している。〈繋がる〉のはほかでもない「あなたの視線」と「あなたを視る視線」だ。

こうした込み入った重層的構造の全貌が最後にみえて僕は大変白熱したものだが、同時に話の筋自体も娯楽作品としても楽しめる内容となっており、非常に出来の良い作品となっている。私的な評価を下すとすれば、今年度のアニメ映画ベストといっても良かったかもしれない。それくらい面白かった。しかし本作は同時にある両義性を内包している。それは物語の構造を読み取るには俯瞰の視座をとる必要があるが、物語に感情移入するためには自らを物語へと没入させないといけないということである。これはトレードオフの関係だ。〈読み〉を確定させるためには、他方の読みをスポイルしなければならない。であるが、本作の両価性はあの浜路の衣装をヒントに捉えることができる。そもそも伏とはあの変幻する表面を巡る物語だった。そこにぼくは本作の意味を見出すのである。

ライトノベルに関する覚書

ライトノベルにまつわるエントリを続けて二本投下したが、ここは批評系合同誌のような対象読者層が想定された場ではなく、もう少し軽い文章も載せていったほうがいいだろうとふと思い立ったので、先のエントリの論点を簡単に要約しておきたいと思う。

(1) 『このライトノベルがすごい!2013』のDTPデザインの話 2012年11月27日

(1)では具体的を挙げて1冊のムック本に関する批判点を指摘したが、僕が問題意識として考えているのはもう少し射程の広い話である。いま巷で流通している「ライトノベル」について、具体的な定義付け及び超越的な視点からの充分な総括が不足していることを(1)では述べた。さらに、この媒体の性質はどうやら商業的な要請からレッテル貼りとして流通した呼称でありそうなことが、(1)の結論によってみえてきた。売り手(≠作者)が売場の都合上一括りに展開するために「ライトノベル」のような分類が必要であっただけで、いわばその一つのレッテルが好意的に受容された結果、物語の書き手及びその刊行者が模倣によって先の土壌に合わせて物語を供給し始めたと考えたほうが自然だ。それによって「規範」にそぐわない作品は自然に淘汰され、読者の選好は必然的に保守化していく。もとよりこれは一定の需要層に売るための分類なのであって、「物語の類型」の分類ではないのである。それゆえに先の観点からではなく、共通する土壌から醸成されたディスコース(言説/記述)の表現手法に着目してライトノベルを解題したメイナード(2012)の先見性は注目に値する。つまり、定義するべきは「ライトノベル」というジャンルではなく、それを受容する「ライトノベル読者」の性質についてなのである。

(2) 「脱=ライトノベル読者」宣言 序説 2012年11月29日

そのような問題提起を、(2)では理念的に行った。メイナードの「ライトノベル読者」の基礎付けに延長線をひいて、特にバウマン(2001)のリキッド・モダニティ概念から僕なりにラノベ読みの生態を読み取らせて頂いた。バウマンが面白いのはやはりポストモダニティの意味で「リキッド・モダニティ」という語彙を用いている点である。いわゆる「ポストモダン」概念の性質をごくごく簡単に述べると、要するに「突然降って現れた」潮流転換である。それこそ突然の近代の退潮と、新しい大衆文化の基礎付けがリオタールの功績であり、日本においては東の仕事だったものである。しかしこれらは文字通り命脈の「断絶」である。そこをバウマンは近代の形状変化、というレトリックを用いて連続性で捉えている。バウマンの見方が優れているのは、現実の経済事象との紐付けを想定している点である。念のため述べると『リキッド・モダニティ―液状化する社会』(2001)の中でその点について踏み込んだ分析をしているわけではない。であるが「重い資本主義」と「軽い資本主義」のレトリックは要するに、リオタールの述べたような新潮流が「突然降って現れた」のではなく、現実の社会の経済構造の変化によって必然的に現れた、われわれ〈大衆〉の生の変化であることを述べているのだ。その転換点を僕なりのごくごく狭い知識の範囲で(2)で考察させて貰った(リベラリズムの文脈から捉えられるそれらの潮流転換として、具体的な統計資料を用いた詳細な分析はハーヴェイ(2007)の仕事を参照されたい)。つまりは「ライトノベル読者」というのは、その中で徴候的に現れる〈大衆〉像を追うことで理解されるものとここでは考える。その上で僕が私的に「面白い小説」と巡りあうためには何が必要かと考えた結果が、「ライトノベル」という包括的な枠組への認識を個人の選好から除外せよ、という結論だった。

「ライトノベル読者」というのはまさしく、自分でライトノベルを読んでいるのではなく、むしろ「ライトノベル」のほうから「規範的な物語」を読まされているのである。であるから僕は「ライトノベル読者」を脱する、とわざわざ明文化して書いたのだ。「ライトノベル」の小説ではなく、一冊の小説を”それとして”〈読む〉ということ……。リキッド・モダニティにおける「個人」という主体が消費行動に実存を求めるという構造が存在する以上「ライトノベル」という名のバベルの塔は各人を魅了し続けるであろう。しかしその団結はいずれ崩れ去る運命にあるのである。「ライトノベル」という実像を持たない全体に気をとられている場合ではない。「規範」による〈物語〉の淘汰はもう既に始まっている。われわれは、個人が各々の確固たる「洞察」をもって「一冊の小説」に当たって行かなければ、バベルの塔の崩壊を食い止めることはできないであろう。

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